- いきいきプラザ一番町 区民ギャラリー1 | 東京都
師 森寛斎 畏敬の念そして敬愛の情
- 2025/1/3(Fri)〜1/5(Sun) 開催前
山元春挙自身が仕立てた、表具に蝋箋を用いた作品や、軸端軸先に春挙が愛でた竹、さらには七味唐辛子の入れ物を再利用した、粋な表具の作品に加え、落款に八十翁とある最晩年の作品でありながら力強く描かれた扇面なども紹介します。
【開催主旨】
森寛斎は文化11年(1814年)長州、現在の山口県に生まれ、幕末維新の時代に主に京都で活躍した京都画壇を代表する画人のひとりです。
天保9年(1838年)に森徹山の門に入り、その後徹山の養子として森姓を名乗り寛斎と号し、当時不振であった円山派の復興を図るため京都に画塾を開きました。
幕末紛乱の時代には、画業に精進するのみならず挺身国事に奔走し、勤皇運動に貢献しました。その後は画道に専念し、その卓抜した腕前により明治23年(1890年)に帝室技芸員に任命され、宮中のみならず元勲や財閥にも重用されました。
寛斎はいく人もの優れた門人を輩出しましたが、中でも高弟として知られる山元春挙は、師寛斎をこよなく敬愛してやまなかったことでも有名です。
京都御所のすぐ南に居を構えていた春挙は、大正10年(1921年)に、生まれ故郷大津の琵琶湖畔に、数寄屋造りを基調とした別邸蘆花浅水荘を建てました。春挙自らその設計に携わり、ひと部屋ごとに意匠を凝らし、蘆花浅水荘が地域の美術工芸の発展の拠点となることをも望みました。この別邸の完成までに、7年の年月が費やされました。
敷地内の持仏堂には、彫刻家石本曉曠により刻まれた師寛斎の仏を安置し、また寛斎の画房「天開画圖楼」の命名の由来に何か関係があるのかとも想像できる、師寛斎から受け継いだ、池大雅揮毫と伝わる「天開画圖楼」の扁額を書院の中央に掲げました。これほどまでに師寛斎への畏敬の念を絶やさなかった春挙は、師寛斎から直接譲り受けた寛斎作品を数多く愛蔵していました。
今回は、呑兵衛コレクションが所有する春挙旧蔵の寛斎作品を展覧します。なお作品の一部は、昨年「続お久しぶりどす、寛齋はん。落款印のあれこれ」で展覧した作品と重複します。
【見どころ】
春挙自身が仕立てた、表具に蝋箋を用いた作品や、軸端軸先に春挙が愛でた竹、さらには七味唐辛子の入れ物を再利用した、粋な表具の作品に加え、落款に八十翁とある最晩年の作品でありながら力強く描かれた扇面なども紹介します。
【主な作品(予定)】
一陽来福図 明治元年(1868年)
恩賜京都博物館 森寛斎遺作図録 昭和19年(1944年)刊収載
幽屋閑居図 元治元年(1864年)
寛斎画譜巻三 明治43年(1910年)刊収載
寛斎画譜 大正元年(1912年)刊収載
遺芳 大正15年(1926年)刊収載
渓山帰樵図 明治2年(1869年)
仙客煮茗図 江戸〜明治時代
寛斎画譜巻四 明治43年(1910年)刊収載
寛斎画譜 大正元年(1912年)刊収載
遺芳 大正15年(1926年)刊収載
恩賜京都博物館 森寛斎遺作図録 昭和19年(1944年)刊収載
夏峡溯舟図 江戸〜明治時代
寛斎画譜巻一 明治39年(1906年)刊収載
遺芳 大正15年(1926年)刊収載
京都府立総合資料館 森寛斎と山元春挙 昭和57年(1982年)刊収載
梅渓幽居図 江戸〜明治時代
三十六俳仙図 江戸〜明治時代
遺芳 大正15年(1926年)刊収載
恩賜京都博物館 森寛斎遺作図録 昭和19年(1944年)刊収載
山口県立美術館 円山派と森寛斎 昭和57年(1982年)刊収載
明恵上人像 江戸時代
楊柳観音図 江戸〜明治時代
遺芳 大正15年(1926年)刊収載
恩賜京都博物館 森寛斎遺作図録 昭和19年(1944年)刊収載
陶淵明図 江戸〜明治時代
李白図 江戸〜明治時代
飲中八仙図 江戸〜明治時代
涅槃図 江戸〜明治時代
宮詣図 江戸〜明治時代
漁樵図 江戸〜明治時代
赤壁図 江戸〜明治時代
花に霞図 江戸〜明治時代
漢書 明治元年(1868年)
時雨和歌図 江戸〜明治時代
若菜画賛 短冊 江戸〜明治時代
猿廻し図 江戸〜明治時代
観蓮図 江戸〜明治時代
恩賜京都博物館 森寛斎遺作図録 昭和19年(1944年)刊収載
都をどり扇面 江戸〜明治時代
梅俳句扇面 明治26年(1893年)